―鈴の音、響け―


風が頬をなでた。気持ちいい。葵は目を閉じた。

 黒く艶のある、癖のなく肩にかかるかかからないか程度の長さの黒髪に、多少潤んだダークブラウンの瞳。

髪は柔らかな風に頼まれるたび、軽く揺れている。

丸襟の白いシャツの上に水色で袖なしのワンピースを着、左胸の位置に名札を縫いつけてあった。そう、葵は制服姿だった。

 彼女はとある丘の上に居た。この丘は、いつも心地よい風が吹いている。なだらかな斜面のこの丘に、来る人はたくさんいた。

 遊びに来る者、休憩でくる者、散歩にくるもの――だが、葵は違った。

 話に来たのだ。風と。姉と――。

 彼女の姉は、彼女が十歳のころ、交通事故でなくなった。

そこは人通りの多い交差点で、葵がだれかとぶつかった拍子に道路に出てしまった。

車が葵を撥ねそうになったとき、姉が彼女をかばって死んだのだ。

 姉が死んだ当初は、葵は絶望のただ中だった。廃人もいいところだ。彼女は姉が死んだことで、生き地獄を味わっていた。

 それでも、葵が元の明るい性格に戻れたのは、風のおかげだった。風が葵の姉の魂がどこにいるのか、教えてくれたからだ。それ以来、彼女はこの丘に来ていた。

 葵は今日で十五だ。姉が死んだ当初の年齢。

――葵、誕生日おめでと――

「ありがと、お姉ちゃん」

葵は空に向かって微笑んだ。

「私ももうすぐ高校なんだよね。何習うのかなぁ」

――いろいろじゃない?葵がついていけなくなるぐらいたくさん――

それを聞いた葵はむっとした。

「確かに中学でも点数悪かったけど、高校でそうとは限らないでしょ?」

――どうだか。授業は積み重ねっていうしね♪――

「そうだけど……」

今度は言い返せなかった。葵はため息をつく。

――まあ、がんばりな。少なくとも、私が葵の勉強監督できるのは、今年で終わりなんだから。ううん、今日の内容が最後ね――

「うん」

葵は、丘から見える町を眺めながら頷いた。

  

「水島!」

 後ろから声をかけられ、振り向く葵。そこには息を切らして葵を見る、葵よりも背の高い少年の姿があった。

 癖らしい癖がない黒髪。平均並の大きさの黒い瞳は、葵を心配そうに見ていた。

「お前、また丘に行ったのかよ」

「別にいいでしょ?私が何をしても」

素っ気なく返し葵は自宅に入ろうとする。

「そんなに何度も会って嬉しいのかよ」

 少年は後ろめたそうに言った。葵の、玄関のドアノブを握ろうと伸ばした手が止まる。

「……なんのこと?」

「とぼけんな。お前丘に行く度に会ってるだろ」

葵の手に力が入らなくなった。ゆっくりと手を下ろし、少年に向き直る。

「なんでそのこと……知ってるの?」

「俺、霊視えるんだけど」

 辺りを沈黙が支配する。葵の喉はカラカラに渇いていた。

「見たの?……お姉ちゃん」

「……ああ。会ったりもしたし、話したりもした」

 少年は葵を気遣わしげに見ていた。葵は静かに「そう」と呟く。そして、少年の顔をまっすぐ見た。その顔には、笑顔が見えた。

「ありがと。お姉ちゃんの相手、してくれて。私、お姉ちゃんの声は聞こえるけど、お姉ちゃんの姿、視えないから」

「べ、別に礼なんて……」

 少年の顔はわずかに赤く染まる。それを押し隠すかのように「じゃあな」と言い残し、葵の隣の家へと姿を消した。

「託也?……変なの」

葵は首を傾げたあと、家の中に入っていった。しばらくして、二階のとある部屋に明かりがついた。

  

葵はだれかにぶつかった。そのとたん道路に、体が飛び出してしまう。

『あおい―――っ!!!!』

 辺りに響き渡るブレーキ音。体が誰かに守られる。反動が体を襲い、地面に体が付いたときには

『お姉ちゃん!?』

姉はすでに、絶命していた。

『いやああああああぁぁぁぁぁっ!!!!??』

  

  

「お姉ちゃん!」

 今日もまた、来ていた。空に向かって、探し人を呼ぶ。

 だが、しばらくしても、誰も返事をくれなかった。

 今まで、そんなことはなかった。

(お姉ちゃん……寝てたりするのかな?)

 声が聞こえないだけで、とても寂しかった。まるで、体を風が吹き抜けていくような。

「お姉ちゃん……」

 とても怖かった。まるで、姉がいなくなってしまったようで。世界から、突き放されてしまったようで。

「水島……?」

 葵ははっとして振り返った。そこに託也がいた。

「託也!お姉ちゃんがどこにいるか知らない!?」

「い、いや、今日は見てないけど……!?」

驚いてぽかんとする託也。そして、次の瞬間ぎょっとした。

「お、おい……泣くなよっ」

つい焦ってしまう託也。どうやら泣かれるのが苦手なようだ。

「一緒に探してやるから」

「……うん」

 こうして、二人は葵の姉を探すことに。最初はやはり、この丘からの捜索だった。

  

「丘にはいないな……家に行ってみようぜ」

 葵は頷く。涙は一通り流れ、少し落ち着きを取り戻していた。

  

 家に来ると、葵の母が葵を見て驚いた。

「どうしたの!?葵」

「ちょっと転んだ拍子に頭ぶつけただけ」

 隣近所に住んでいるため、敬語の一つも使わず嘘の説明をする託也。葵の母はあっさりと納得し、家に入れてくれた。

 葵の部屋に向かうふりをして、家中を探してみる二人。本当のことを知らない葵の母は、二人が一緒に歩いているのを微笑ましそうに見ていた。

(ここにもいないぜ。他に思い当たる場所は?)

声を小さくして葵に尋ねる託也。葵は少しの間考える。

(紫陽花公園、明ノ山(あけのやま)、桜川)

 葵は指折り数え、三つの場所を上げた。

「じゃあ、紫陽花公園から行ってみようぜ」

  

 紫陽花公園はその名のとおり、梅雨ともなればアジサイの花が咲き誇る、地域の者になじみ深い公園だ。

 今は梅雨の時期から外れているため、

公園のブランコで遊ぶ者、紫陽花の影を使って隠れん坊をする者、広い敷地を利用してサッカーをする者など、とても賑やかだった。

「どう?」

「っと……」

 託也は辺りを見回して悩み、少しして首を振る。葵の表情がわずかに曇った。

「そう……」

「次行ってみようぜ」

  

 そして次に来たのは桜川だった。

以前は川沿いに桜並木があり、春となれば満開の桜が散り行く、とても綺麗な地域の名所だったのだが、

最近になってとある事件が発生したため木を撤去。

今では代わりに公孫樹の並木が立ち並び、秋に賑わいを誘うようになっていた。

「今年花見してたり、お前の姉貴が散歩して立っていうルートを進んでみようぜ。霊ってそういうところに来やすいって聞いたことがあるし」

「思い出の残像をたどってるってこと?」

葵の言葉に頷く託也。正直、彼は葵がそのことを知っていたのに驚いていた。

 しかし、いざ葵の姉を探してみると、それどころではなくなった。

なにしろ、花見をする場所が毎回変わるし、姉の散歩のルートもあまりにも適当だったのだ。

かなり広い範囲のため、集中的に同じような場所を探すことはかなわず、気づいたらすでに夕刻時だった。

「お姉ちゃん、どこ行ったんだろ……」

葵はうつむく。託也は困ったように頭をかいた。

「今日はいったん帰ろうぜ。明日どうせ休みだし」

こっくりと頷く葵。頷く際に髪が二人と浮いた。

 だが、託也は葵の方を見ていなかった。その顔は驚きに満ちている。

「いた!!」

 その一言を残し、託也は走り出した。慌てて追う葵には、姉がどこにいるのか分からない。ただ、託也の後を追うしかなかった。

  

 ただひたすら、川沿いの道を走っていた。途中で橋を渡って対岸へ行き、道路を横切り、公園を走り抜け――ただ無我夢中で走っていた。

  

 ――ただ

  

ひたすら――

  

  

 どのぐらい走ったのか。いつの間にか夜の帳が折り、葵の姉の姿はどこにもなかった。

「どうしよ……」

「どうしよって……」

 二人は顔を見合わせる。葵は託也を心配そうに見つけ、託也は困ったように頭をかいた。

「いったん戻って、明日また来るか?」

「帰り道、分かる?」

 それを聞いたとたん、託也は固まった。

「おまっ……!覚えてないのかよ!?」

「だって、託也を追いかけるので精いっぱいだったし……」

「俺だっておまえの姉貴追うので精いっぱいだったんだぜ」

 二人はしばらく固まり、そして盛大なため息をついた。

「しゃあない、駅探そうぜ」

「うん……」

 葵は頷き、大きな通りを探し出した。人に訪ね、看板を探し、地図を確かめる。だが、そうやっている間にも、時は過ぎているのだった。

  

 ついに深夜になってしまった――

「ねみ……」

「私も眠たいなぁ……丘に行って寝てみたいかも」

 託也は「丘かぁ」とぼやいた。ここから丘まで、どのぐらい距離があるのだろう。

 ふと、二人の耳に、澄んだ鈴の音が聞こえてきた。葵ははっとした。

「どした?」

「鈴の音……お姉ちゃんが持っていたのと同じ!」

「だけど、鈴ならいくらでも……水島!?」

 葵は走り出した。託也がついてきているかも確かめず。ただ、鈴の音を頼りに。

 足をとめようとせず、ただ、一心に。

  

  

「あっ、丘!」

葵の表情がうれしそうに笑顔になる。早く頂上に着きたい一心で、彼女は道路に飛び出した。

「危ないっ!」

 託也の声が聞こえたかと思うと、葵は自分の体を誰かが守るように抱くのを感じた。

ライトの光が葵の目に飛び込み、ブレーキ音が辺りに響き渡る。

 車が何かに衝突する音、葵と誰かが地面に叩きつけられる音。葵は自分に何のけがもないことに、逆に恐怖を抱いた。あの時と同じだから。

「大丈夫か……?」

 目だけを、声の主の方へと動かす。託也がそこにいた。額から血が滲んでいる。

「託也……血…………っ!」

「へ?……あ、また血が出てるのか?俺」

 のんきなその一言で、葵はきょとんとした。

「だ、だだだだだだ大丈夫かっ!!!??」

 かなりの大声に、葵と託也は飛び上がる。

 見れば、中年男性が車から大急ぎで降りてきたところだった。託也の血を見るなり青ざめる。

「大丈夫っすよ。どうせ傷開いた程度だし」

託也はへらへらと笑い、そして葵を見る。

「葵もけがしてないだろ?」

「うん……でも……託也、血……」

葵の顔は真っ青だった。その目は託也の額の傷に向いている。

「機能自転車乗って弁当買って帰る途中に、他の自転車とぶつかって怪我しただけだよ」

こともなげに答える託也。それを聞いた中年男性はほっとし、だがすぐに気を引き締め、厳しい表情を作った。

「それにしても、こんな夜遅くまでで歩いているのは感心しないな。一体何をしていたんだ?」

「探しているものがあるんです。でも、見つからなくて……また明日も探さないと」

葵が答える。明日という響きが、間違っているように感じられた。

「今日はもう帰ります。飛び出したりしてごめんなさい」

 中年男性は「謝るのはこっちの方だよ」と苦笑いを浮かべ、二人に車内にあったサンドイッチをくれた。

そして、夜の丘を下っていく二人を見送った。

  

「ごめんね」

「へ?」

葵が立ち止まり、託也もつられて立ち止まる。

「私が飛び出したから……」

「別に気にしなくても良いんじゃねーか?大したけがもしてねーし」

「でもっ」

 葵は辛くてたまらなかった。あの時を思い出してしまう。姉が自分の代わりに死んでしまった日。自分のせいで死んでしまった、あの時。

「また、私のせいで……託也までいなくなってしまいそうで……」

目頭が熱くなる。頬が何か、熱いものに触れ、それは流れる。

 託也の表情がわずかに曇った。だが、それでも。

「もう終わったことだろ。引きずる意味ないし、区切りつけないと先に進めないぜ」

「でも……っ!」

辛くて、泣いていた。しゃくりを上げ、下を向き、涙をふき取る。

それでも、涙は止めどなく流れていた。次第に感情を抑えきれなくなり、大きな声で泣いていた。

 託也は、今度は焦らなかった。どうしたらいいのか、分かったから。

今はまだ、本当のことは言わなくても良い。それは後からの方が、絶対良い。

 彼は葵の頭をなでた。髪を乱すかのように、くしゃくしゃと。

 それを合図に、葵の泣き声は少し大きくなった。

「もう大丈夫だから、気にすんな」

 その一言が、葵の心に一区切りつけてくれた。葵は託也の服にしがみつき、泣いていた。

 託也は服が濡れるのもかまわず、ただ、葵の頭をなでてやった。

 鈴の音が、二人の耳に、優しく響いていた。

 葵の姉が、空から風と共に、二人を見ていた。

――二人とも、がんばれ――

 その一言を残し、優しさを残し。葵の姉は消えた。白き光となって。

 鈴の音だけが、二人を優しく取り巻いていた。

うへへへぇーい。
お宝ですよ、お宝。
相互リンク記念ということでこない素敵なもの頂いてしまいました。
本当にありがとうございます。
託也が個人的にお気に入りですw


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